奈良の景教史跡巡り

今回は奈良に行ってきました。総勢12名の参加があり、景教に関連があると思われる史跡を見てきました。

以下の文は日本景教研究会のメンバーであり、研究会の運営委員でもあるハウディシェル・ブラッドフォード氏(高校英語教師<奈良>)の資料から参考にさせていただきました。

東大寺二月堂で行われるお水取りの儀式には、原始キリスト教で行われた大変よく似たものが多く見られる、とのことです。以下その抜粋、要約です。

 

●天平勝宝8年に描かれた東大寺の古図には二月堂の図が無く、代わりに「神の地」と書かれている。

●昔のキリスト教の聖堂はみな東に向かって礼拝し、祭壇は東に、礼堂が西に位置している。奈良のすべての寺は南に向いている。東大寺、薬師寺、唐招提寺、法隆寺など全て南大門から北方に建てられている。しかし、二月堂だけは礼堂は西にあり、内陣が東に建てられている。

●修二会の行われる期間中には「六時」と称する観音様に対する祈りの時が六回(日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝)ある。更に昼の12時にも1時間の祈りの時間があり、1日7回の祈りをする。キリスト教の神父たちも昔から、毎日詩篇を教会や修道院で一堂に7回集まって祈りをする。

●その他に「神名帳」の朗読があり、「秦の大明神」というのが3回唱えられる。大仏建立の頃、中国から中臣名代が19人の外国人を連れて渡って来ており、その中に3人のペルシャ人がいた。

●3月1日の暮れ方に呪術(悪魔祓いの僧)が様々な種類の穀物の種を捧げて豊作祈願をする。キリスト教国では春の満月の後、即ち復活祭の後に全ての穀物がよく実るように祈祷祭が行われる。

●3月7日に行われる「小観音」の儀式では、「小観音の逗子」を礼堂の左側に運んで礼拝する。キリスト教会では復活祭前の土曜日に、復活のキリストの蝋燭の儀式がすんだ後、外から厳かに水を教会に運ぶ儀式がある。

このように二月堂で行われる儀式では原始キリスト教の儀式と非常に似た側面がある。

 

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法華寺

ご存知のように聖武天皇后、光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られています。光明皇后にも景教にまつわる逸話があります。

以下の文は(十字架の国日本 ケンジョセフ著よりの抜粋)

 

●光明皇后には将来天皇になるべき子がいましたが、白血病と思われる病気のために死にかけていた。それを診た景教の宣教師であり、医者であった李密医は、光明皇后に聖書(マタイの福音書8章)を読み聞かせ、そこにはキリストによる病人の癒しが書かれていました。李密医が皇后にメシヤが彼をいやしてくださることを信じますか。とたずねたところ、皇后は「公にはできませんが、信じます。と答え、二人が共に祈った所、息子の病が奇跡的にいやされました。それ以後皇后は慈善活動を積極的に行い、「悲田院」や「施薬院」、「療病院」等をつくり、自らも看護婦として働いたのです。

●景教徒の間では、こうした慈善活動はごく普通のことでした。・・・景教徒はアジアの各地で「悲田院」や「施薬院」「療病院」と呼べる施設を建設していました。・・・このように光明皇后のしたことは、もともと景教徒たちがアジアで幅広く行なっていたことだったのです。

●光明皇后について書かれた日本の一般書を読むと、多くの場合、光明皇后は仏教を深く信奉していて、このような慈善を行ったと書いてあります。しかし、実際には当時の仏教徒の間には、このような慈善の考え方や実践は無かったのです。当時の仏教は悟りを得て「最高の知性」を得ることを目的とし、慈悲の行いをむしろ軽視していました。当時の仏教は国家の安泰、鎮護の仏教だったのです。これは仏教学者自身が認めるところです。

●光明皇后の「光明」はおくり名(死後に贈られた名)で、景教の「景」には「偉大なる光」「光明」の意味がある。